学びの主体

 今日、『街場の共同体論』(内田樹 著、潮出版)を読み終わる。まさに正鵠を射るとはこのことである。学びの本質は先生(師)にあるのではなく、生徒(弟子)にあり、弟子が、あれこれと師の言葉を解釈し、言ったことの意味、言わなかったことの意味、動作の意味さえあれこれ考える。まさにそれは師の意思とは関係がないかもしれないし、あるいは反対の意図に解釈するかもしれない。しかし、弟子の側があれこれ閑雅を巡らすことで、それが考えの広がりになり、深さになる。

 とかく、「正解はなんですか?」と問われることが多い中、正解なんてないほうが普通で、いつも、学生には「正解のあるものは勉強ではなく、作業と言います」と言っている。受験勉強までの学習や、検定試験の対策なら、正解はあるが、どうやって売れる製品を出せば良いのか、何が売れる製品なのか、を考える企業には正解はないはずだし、どんな医療が患者の病気を直すのか、あるいは看護が患者の心をいやすのか。どうやったら、効果的に教育を実践することができるのか。模索や思考こそが、仕事になる。

 学ぶことはいつだって、先人たちの行為をうけとり、それを解釈し、自分たちで再生産することだと改めて認識した。

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