言語の不思議

 土日の学会が無事に終わった。毎年、体育の日の前の土日が日本機能言語学会の秋期大会となっている。今年は龍谷大学の梅田キャンパスという大変立派な会場で開催された。準備に当たられたスタッフには本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

 大学で教えていると言うと、よく「専門は何ですか?」と聞かれて、「言語学です」と答えると、「どんなことをやるんですか?」とさらなる質問をされることが多い。へたをすると「何カ国語出来るんですか?』という質問をされることさえある。実は言語というのは私たちの日常であたりまえのようにつかっているので、それを研究するとなると、「正しい用法」だとか、「多くの外国語の学習」だとか、「教育法」のようなイメージくらいしかわかないのかもしれない。まるで、「歩くことを研究しています」というのとおなじようなものかもしれない。

 しかし、歩くメカニズムが大変複雑で、それをロボットで再現しようとしたときに膨大な時間とエネルギーがかかったように、言語を研究するというのは簡単そうで、実はあまりにも多角的で、その守備範囲は膨大なものだ。例えば、日本語を使う場合でも、表現をつくりだす文法があって、そこには、どのような単語を使うかの選択が蟻、どのような発音をするかの選択もある。標準語のように発音するのか、方言のようにするのか、あるいは方言の表現を使うのか、標準語の表現を使うのか。長い発話になったら、どのように文をつなげるのかの順序も考える。そして、そういった表現を作るときには、その場の状況が大きく作用するので、言語の研究には状況の要素を入れなければならない。さらに言えば、その状況が社会の中でどれほどパターン化されたものなのかも考慮する必要がある。その状況中だからこそ生まれる意味があるからだ。
 今の時代は言語とマルチメディアの関係も重要になっている。言語と言語以外の情報によって、意味が作り出されるので、その関係性を浮き彫りにするのも言語研究の一つと言える。

 同じ日本語を使っているようでも世代差もあれば、地域差もある。どんな風に違うのかも大きなテーマだ。特に、世代差はどの時代にもあり、必ず上の世代は若者の言葉が乱れていると批判をする。これはいつの時代でも同じこと。でも、なにがどのように変化するのか、方向性があるのだろうか。
 赤ちゃんは言語を覚えるのが当たり前のように思えるけれど、どんなふうに覚えるのだろう。人間が脳でどのように言語を処理するのかもテーマの一つだ。特に、事故や病気、あるいは後遺症によって言語をうまく使うことができなくなったとき、この問題が大きくクルーズアップされるし、、どうやってリハビリをするか、これも言語の問題だ。

 そもそも、自分たちの社会の中で使う言語がどのような位置づけなのかも考えなければいけない。確かにコミュニケーションのツールが言語ではあるけれど、交換可能なドライバーやスパナと同じようなものではない。このツールは自分たちのアイデンティティを内包するものだからだ。だから、学校教育をすべて英語でやればいいという暴言は容認できない。
 このツールは刻々と変化しているので、実態をつかめそうでつかめない。そんな不思議なものを研究するのが言語学といえるかもしれない。その中でも、言語が社会のなかでどのようなシステムとして機能しているのかを探るのが私が専門としている選択体系機能言語学である。