教育と効率

 最近のニュースによれば、財務省は教員を18000人削減できると考えているらしい。確かに机上の計算で、生徒の人数と教員の人数を計算して、自分たちの経験してきた40人学級で編成すれば、そのような計算が成立するのだろう。とかく赤字の多い国の財政であるから、予算を削減するようにとの理屈はわかる。

 しかしながら、教育の現場にいる人間、それは小学校から大学まで、いや、塾や予備校、家庭教師にいたるまで、肌で実感することがある。それは、教育とは根本的に非効率的なものだということだ。そもそも、schoolとはギリシャ語の「暇」が語源である。古来、教育を受けることができるのは、その日の食べ物をどうしようとか、毎日の肉体労働に追われる必要の無い、裕福な層である。奴隷がいて、言ってみれば、「暇」をもてあましている貴族階級が、「さて、万物の成り立ちってどうなんでしょうね?」と考え始めるのが西洋哲学、自然科学のはじまりのようなものだ。そのようなことに効率はあり得るだろうか。

 もう少し、考えてみよう。例えば、英単語を10個覚えたいとする。頑張って、10個の単語を書いたり、口で唱えたりして、覚える。いったん覚えたかと思うが、一ヶ月後、その半数を忘れていたりする。そうすると、また練習しなおす。そして、繰り返すことによって、あるいは使うことによって、ようやく身につく。

 あるいは、論理的に物事を考えることが求められる。どうすると、どうなって、どんな結果になるかと考えなければならない。すぐに答えが与えられてはいけない。考え抜いて答えを導く。数学の証明問題が良い練習だ。そこには、着眼点も求められる。あるいは、大学のレポートであれば、正解はない。論理的な考えの延長上に様々な見地が考えられる。

 論理的な思考法を実践するときほど時間がかかり、試行錯誤が必要になり、近道はない。そこに近道を求めるのが効率なのだろうが、物事をまなぶというのは、近道だけではない。その結論に至るまでの試行錯誤こそ、学びにとって重要になる。一見、効率が悪い過程の中にこそ、知識や思考の重要性がある。

 数学の証明問題に話を戻そう。日常生活に数学の証明問題が問われることはない。子供の言を借りれば、「使わないんだから、意味ないじゃん」なのである。しかし、大人はそれが論理的な思考法の育成になることを知っているから、意味ないとは思わない。しかし、子供の側からすれば、使わないことを学ぶのは「効率的ではない」のである。無駄なのである。しかし、大人は知っているのだ。無駄の中に真実があることを。

 お役所だけではなく、財界も教育に効率性を求めるような発言をする人たちが多い。中には、英語を教育の言語にすればいいという暴言をする人もいる。日本語では、ビジネスに「非効率」だからだろうか。しかし、効率性を追求した日本社会が今、どうなっているのかも見つめて欲しいと思う。効率を重視した結果、人間性が薄らいで、住みにくい世の中になっていないだろうか?

 教育を受けられることは幸せである。ノーベル賞を受賞したマララ・ユスフザイさんが命と引き替えに教育の大切さを主張していることに耳を傾けなければならない。日本においても「おしん」という昔のドラマが伝えるように、教育を満足に受けられたのは生活に余裕のある層の子供だった。実は私の祖母は教育を受ける余裕がなく、文字を読むことができなかった。それが、公教育のお陰で、日本ではほとんどの子供が文字を読むことが出来るし、中学までの教育を受けることができる。すばらしことだとおもう。

 しかしながら、それでも問題は多い。多人数の中で学習することが出来ない子、さまざまな事情でハンディキャップを持つ子。そういった子どもたちにも教育を受ける権利があり、それを支えるのが現場の仕事だ。そうするためには、膨大な人手と時間がかかる。結果的にはお金がかかるのだ。

 日本は先進国の中でも教育に公的資金をつかうことがとても低い国で、その負担は親に担わされている。しかし、子供は親だけの子供ではない。将来の社会を支えるのは子供で、国の宝だ。教員として、親として、納税者として、それを忘れたくないと思う。

 

Remove all ads