表面上の理解と深い理解

 英語の授業で学生の単語の意味を質問する。そのたびに痛感するのが、「理解」ということだ。例えば、昨日は学生にbid という単語の意味を聞いた。学生は辞書を使って、「入札する」と答えるのだが、ここで、「では、入札するってどういうこと?」と尋ねると、「わからない」と答える学生が多い。そこで、今度は国語辞典を使って、「入札する」という動詞を調べさせる。電子辞書には英和辞典も国語辞典も入っているので、こういう指導が楽にできるのは便利だ。

 ところが、今度はその国語辞典を読んでも分からないのである。例えば、「入札する」を調べると、そのなかに「請負」という言葉が出てくるが、まずこの漢字が読めない。あるいは、公共事業という言葉もその説明の中に入ってくるが、それがわからない。もちろん授業では、そのあたりも質問したり、あるいは最後には解説をした。

 最初にbid「入札する」とだけおさえておけば理解していたと思えるが、それはあまりにも表面的で、本当に理解とは言えない。ただ単に辞書にある言葉をつなぎ合わせて、英語を理解したように思えるかもしれないが、それでは深い、本当の理解とは言えない。他の授業ではkillerという言葉が死因の意味で使われていたが、そこをずばりと分かっていたのはクラスの半数であったように思う。英語が本当にわかるためには、日本語の語彙、さまざまな知識が必要であることをいつも学生に語っているが、どれくらいそれを受け止めてもらっているのだろうか。