ネイティブ信仰の幻想

 昨日新聞の広告を読んでいたら、英会話の本の広告が目に入った。何でも中学英語をネイティブが教えると、日本語の教科書の英語はへんてこりんだというものらしい。驚いたのは読者からの感想のコメントで、その中に、「ネイティブは受動態も関係代名詞も使わないって知って驚きました。」私の方がびっくりくりくりで驚いた。
  どうも、日本人はネイティブに日本人の英語は変だとか教科書の英語はなっていないと批判されるのが好きらしい。こういう本が売れているらしいのだ。しかし、教育関係の人間として一言言わせてもらえれば、教科書を編纂しているのは素人ではなく、英語のプロたちだ。その多くは大学で英語を専門的に教えている教授たちで、彼らの英語運用能力はかなりのものだろう。どうしてこんなことが言えるかというと、知人が数名教科書を編纂しているし、その人たちの英語力を知っているからだ。また、編纂には必ずネイティブが含まれている。だから、日本人の勝手な英語ではない。
 とはいえ、教科書の中のエクササイズなどのなかには「そん風には言わないだろう」というのもたまにはある。中学生の息子の教科書の中の例文を読んで、こんな失礼な言い方はしないぞ!と思ったこともある。
  さて、ネイティブの問題だ。どうも日本人は外国語を学ぶことはネイティブと同じになることと勘違いしていないだろうか。ネイティブはこう言うからこうでなければいけないとか、ネイティブの発音を一生懸命真似したりとか。特に英語、しかもアメリカ人に対する想いは別格にすら感じる。
  だが、どうあがいてもネイティブにはなれないし、なる必要もない。英語を使う人たちは世界で30億人ほどだがネイティブの割合は15%くらいだ。むしろ英語はノンネイティブの言語と言える。私たちが身につけるべき英語は日本人としての理解力と発進力だ。アメリカ人になろうとする考えはばかばかしい。言語のことを知れば知るほど、今の英語に対する風潮には疑問を感じるようになると思う。
  さて、ネイティブは受動態も現在完了関係代名詞も使う。受動態は被害者視点の表現なのだから、心配事がでも日常でも「やられた!」時に使う。また、お客様などへの注意や警告に使う。英語が間接的な表現として、結果的に丁寧さが生まれるからだ。代名詞を使わないで英字新聞が読めることはあり得ない。複雑な修飾を可能にしているのはこの手法があるからだ。
  大学4年の時の英語の購読の授業で、中学校の教科書をすべて暗記しなさいと、先生に言わ、耳を疑ったが、課題も出されたので、一生懸命覚えた。その結果、様々なことを英語で論じることが出来るようになってきたし、英語の力としての骨が出来上がったと実感できた。今でも、私の授業では中学英語をしっかり学び直しなさいと指導する。
  中学英語は身の回りのこと、何かの出来事、第三者の出来事や状況の説明、そして考え方の表現と学年を追ってそれが身につくようにプログラム化されている。  
   ネイティブと一言で言うが、ネイティブ同士でも出身地や教育経験、社会的な階層によって大きく表現が異なる。中学英語で罰をつけられるHe go to Tokyo.のような英語を普通に使い地域もあるし、She kind.のようにbe動詞をすっ飛ばして表現する社会的な階層もある。アメリカ人はcell phoneというが、オーストラリア人はmobileという。アメリカ英語だけが英語ではない。アメリカ英語の方が訛っているということも可能なのだ。
  日本人として身につけたいのはアメリカ人のような表現ではなく、誰とでも通じ合えるような最大公約数としての英語だろう。そのためにも、まずは英語で伝えるべき内容があるかどうかを振り返りたい。世界が耳を傾けてくれる内容があれば日本人の英語はかなり立派だと思う。
   なんでもかんでも、「ネイティブはしない」、とか、「ネイティブはこうする」という考えは捨てようではないか。