学問に対する冒涜

 ある行政府の市長が修士論文を書いたが、審査に不合格になったという報道があった。現役で仕事をしつつ、修士論文を書くのは大変だからたいしたものだと思ったのだが、どうもその論文が審査に落ちたことが不服らしい。審査は投票だったらしいが規定数に達せずに不合格となったのだから、やはりその内容に問題があると考えるのが普通の大人の考えだと思う。

 本当は、修士論文は指導教官と密接に連絡をとり、内容に対する精査をしていけば、審査でおちるようなレベルにはならないのではと思う。もちろん分野や提出する大学院によって異なるのだろうが、そのあたりはどうだったのだろうと疑問が残る。報道では内容が自分史のようなものだったというから、審査で不合格とした大学は良識をもった判断をしたと言えるだろう。

 さて、話はここからだ。この市長は、この論文の不合格が気に食わずに、それを他大学の博士論文として提出したいと他の大学の学長に直談判をしたとのこと。修士のレベルにさえ達しないのに、それを博士論文に、しかも市長である政治的な立場を間接的に使いながら学長に直談判をするということは、もう学問に対する冒涜だ。「自分が書いたから、通せ。俺は偉いんだぞ」という感覚があるとすれば、それは学問を行う者の姿勢ではない。もっと謙虚に、「わからないからこそ、探求する。分かる範囲でまとめてみたが、いかがだろうか」という姿勢こそが、論文を発表する者のあり方だと思う。

 自分自身を振り返りつつ、もって他山の石としたいとおもう。