機械翻訳の期待と不安

 今朝の中日新聞機械翻訳機や通訳機の記事が載っていた。東京オリンピックに合わせて実用化が図られているようだ。機械を使った翻訳は実は結構歴史があり、1960年代には機械翻訳の研究やらプロジェクトが始まっている。ICTの性能は飛躍的に高まっていて、一昔前のメインフレームが手の中に入る時代となった。

 たしかに、iPhoneのアプリの中には母語でメッセージを入れると対象の外国語に翻訳をしてくれて、表示してくれるので、便利な世の中になった。きっと海外旅行などでは重宝するだろう。こういう時代になると「外国語教育なんていらないよ」という声が短絡的に出てくるんじゃないかと思う。

 気をつけなければならないのは、実用化されている範囲の翻訳や通訳だ。実は買い物や挨拶といって、決まった範囲の情報のやりとりである。自由会話で機械が助けてくれたら、それこそすべて楽になる。しかし、言葉はそれほど簡単ではないのだ。一例を挙げよう。「教壇に立てなくなった」という表現をどう扱うべきだろうか。「真は歳をとりすぎて、教壇に立てなくなった」という表現をどう英語にすべきだろうか?例えば、これはMakoto is too old to teach.という英訳が正しいはずだし、「真は足を骨折して、教壇に立てなくなった」ならMakoto broke his leg, so he can't have his class standing in the classroom.くらいになるのではないだろいうか。「教壇に立つ」という表現が慣用表現なのか、あるいは字義通りの意味なのかは、先行する語彙や統語機能で左右される。さらに文の前後だとか、言葉をやりとりするコンテクストによって左右される。こういう情報の処理をするには、まだまだ機械に入力する変数が多すぎて、処理できないし、そもそもどういう変数にして、処理させるかも考えなくてはならない。すごいのは、人間はこのような変数をたちどころに処理して、コミュニケーションを成立させているところだ。

 機械に頼る前に、人間が外国語を勉強して使うようになるほうが、遥かに実用的な時代はまだ当分続くのではないだろうか。