舌触り、肌触り、耳障り

 言語は絶えず変化する。言語学者の端くれとして、授業でも語り、その例をあげる。言語は使う人間が変化し、環境が変化するのだから変化するのが宿命だ。おそらく、40年前の人には今の我々の日常会話の多くが理解できないに違いない。

 しかし、言語変化を快く思うかどうかは別の問題だ。最近ある政治家が「耳ざわりのいいことばかり言っている」と他の政治家を批判していたが、この「〜ざわり」という言葉、結構誤解がある。舌触りや肌触りは実際に触るので、「いい」こともあれば「悪い」こともある。ところが「耳ざわり」は「耳障り」と表記するくらいで、実はこの言葉自体がすでに悪い意味を持っている。したがって、「耳障りがいい」というのはひどく不愉快なことがいいという意味になって矛盾を生じるのだ。こういう誤用を耳にするたびになんとなく違和感を感じる。

 だからと言って、こういう言葉の誤用をする人の人間性をとやかくいうつもりはない。市井に目を転ずれば、「1万円からお預かりします」という誤用は今や珍しくもないし、そもそもネイティブがこうやって言葉を変化させていくものだ。「〜させていただく」の不必要な使用もあるし、「小学生ぶり」のような「ぶり」の誤用は可愛く思えてくる。

 面白いのはこのような変化は若者ばかりではないということだ。我々のような熟年世代でも割と誤用をする。きっと周囲の御用から影響をされるのだろう。逆に言えば、熟年世代に受け入れられ始めたら、単なる流行から言語変化の兆候と考えることもできるのではないだろうか。

 高校生の時に「全然好きです」と国語の授業で回答したら、「佐々木君、全然は、〜ではないという否定表現と同期するものですよ」と指導されたことを思い出す。いつでも若い世代が言語変化のエンジンになっているのだろう。